道具よもやま話

8前挽大鋸の終焉

 広島から車で北へ約1時間余り、中国山地の山峡に千代田という古い町がある。ここの三上新三郎商店を神戸の道具鍛冶・宮野裕光さんの案内で、嘉来さんと一緒にお訪ねした。

 当主の新三さん(大正12年生)は、鋸鍛冶の家を継いで4代目に当たる。文久3年(1863)生まれのおばあちゃんは、天保3年(1832)創業と言っていたそうだが、本格的に鍛冶を始めたのは明治になってかららしい。

 初代新三郎さんが、どこで修業してきたのかは、はっきりしないが、京都らしいといわれているから、近江甲賀かも知れない。代々、木挽の前挽鋸を専門に造ってこられた。

 町外れにある当家は、街道を挟んで右側に店と住まい。向かい側に大きな仕事場と倉庫が並んでいるが、今は鋸の目立職人が二人しかいない。昭和15年(1940)頃の最盛期には職人も30人を超え、目立てだけでも10人も並んでいたとのことである。

 肝心の鍛冶場だけが住まいの裏に2棟あり、前挽きを打っていただけに火床も大きなもので、長さ2尺、巾1尺の前挽鋸を打った時には、向鎚が7人掛りで「トントン トテトテ トッテンカン」と鎚書が威勢よく響いていたという。しかし、時代の波は、ここにも容赦なく迫った。昭和46年(1971)から炉の火も消えたままである。 

この読み物は、当館の開館1年前(1983年)に大工道具館設立の意義を広く伝えることを目的に、元副館長・嘉来國夫ならびに元館長補佐・西村治一郎の2名が主となり、「道具・よもやま話」と題して竹中工務店社報(1983年発行)に連載したものを、改めてここに転載したものです。20年以上前の記述のため、古くなった内容もございますがご容赦下さい。