道具よもやま話

10千代鶴と江戸熊

 千代鶴是秀(本名・加藤廣)さんは、刀匠2代目・長運斉綱俊の三男として明治7年、東京飯倉に生まれている。

 11才の時、東京麻布で代々刀匠として名の高かった石堂家の8代目で、伯父に当たる是一(寿永)の弟子として石堂家に預けられ、道具鍛冶の道を歩むこととなった。是一の長男・9代目秀一とは同年であり、よき修業友達でもあった。

 21才の時、是一の娘・信と結婚。26才の明治32年まで石堂家で暮らしているが、その頃に独立、“千代鶴”と号した。以来、昭和32年、84才で没するまで、その名声とともに多くの逸話を残した。彼の鍛えた刃物は、その切れ味とともに作風の品格、造形の美しさは明治以降この道の最高峰と称され、その生涯を、求める人、使う人のために「用から美」へと昇華していった方であった。

 また、一方では、文人墨客、歌人学者と交わりも広く、食のために仕事はしない風流心から、台所はいつも火の車であったらしい。

 これも探究心と風流心から、仕事の合間に鉈、釘抜、切出し小刀、包丁、剃刀、鋏、火箸まで打っては、親しい人や世話になった人達に贈っているが、これらは今日でも愛好家の羨望の的となっている。

 江戸熊との出会いは、大正8年、40才の頃であった。江戸熊との出会いの話は、白崎秀雄氏の著書「千代鶴是秀」に詳しく述べられている。それによれば、大正8年頃、大阪に加藤熊次郎という大工がいた。彼は千葉安房の生まれで、幼少の頃から東京の親方に弟子入りし、腕は確かであったが、持ち前の一徹の気性から親方とも合わず、関西に流れて大阪に風来職人をしていたが、江戸っ子弁でまくし立てるところから「江戸熊」が通り名になったという。

 若くして名をあげた千代鶴の道具は使うためよりも、神棚に祭るために求める職人も出るほどであったが、千代鶴の鑿を知った江戸熊は、己の腕のために、一面識もない千代鶴宛に切々と願いを込めた手紙を代筆してもらい、戸籍謄本まで付して送っている。

 名人は名人を知るというべきか、千代鶴は、彼の心根を受けて注文の押入鑿15丁を鍛え上げて、汽車賃を工面して夜行で大阪まで届けに行っている。いつも千代鶴は注文主に直接手渡して、その評価を確かめていたのだ。

 大阪駅で初対面した二人が、お互いの貧乏ぶりを見せ合うくだりも面白い。千代鶴は、常に自ら納得するまで手間を惜しまぬ仕事振りのため、生涯寡作であり、値も高かったが、暮らしも楽ではなかった。それにしても、貧乏大工の江戸熊その代金をどう工面したのであろうか。

 白崎秀雄氏の調べによれば、大正頃の大工の手間は普通1円50銭、大工鑿並品10本1組で3円50銭、上物で7円50銭、石堂秀一は破格で75円といわれていたが、千代鶴は何と1組100円であった。江戸熊の注文は15丁であったから、しめて150円である。彼は己の腕のために、莫大な借金をして求めたことになる。

 話は昭和15年頃に移る。東京木挽町で、明治中頃から今も旅館を営んでおられる加藤家がある。ここの2代目当主に加藤俊夫さんという方がおられた。娘さんの話では趣味豊かで、しかも大変な凝り性な方で、ふとしたことで千代鶴師匠と知り合い、足繁く目黒の千代鶴家に通い、しまいには自分でも刃物を打って得意になっていたそうだ。一方、裏から千代鶴家の面倒も見ていたらしい。

 その頃、大阪から江戸熊の娘が千代鶴を頼って上京してきた。江戸熊が亡くなって例の鑿の始末の相談に来たのだ。その時には千代鶴の鑿は37丁にもなっていた。結局これを高橋さんが引き受けられたのである。  さらに時代が過ぎて、今年、高橋さんが亡くなり、道具研究家・土田一郎さんの紹介で岩本顧問(元竹中大工道具館初代館長)とお訪ねして当館に納まることになった。

 戦時中、鎌倉の別荘に疎開していた鑿の手入れは、土田さんが引き受けて下さった。数奇の運命をたどった江戸熊の鑿は、漸く安住の所を得たのである。

江戸熊の鑿 

この読み物は、当館の開館1年前(1983年)に大工道具館設立の意義を広く伝えることを目的に、元副館長・嘉来國夫ならびに元館長補佐・西村治一郎の2名が主となり、「道具・よもやま話」と題して竹中工務店社報(1983年発行)に連載したものを、改めてここに転載したものです。20年以上前の記述のため、古くなった内容もございますがご容赦下さい。