3無銘の作品
昭和57年夏、東京・広尾の病院に石堂輝秀さんを見舞いに行った。輝秀(明治32年生)さんは、石堂家10代目の道具鍛冶、鉋作りの当代の名工であり、8代是一、9代秀一と代々日本大工道具史に残る名工の家柄の長男である。大工道具館で入手した無銘の鉋が、その形、鎚跡などから輝秀作と思われるので、お元気なうちに一度お目にかかって、ご本人に直接見てもらいたいとの願いからでもあった。
病床に伏せった老人は、私たちの挨拶に静かに目で応じられた。肺癌を患われて手術のために声は出ない。嘉来さんが抜身の刃を布で押さえて恐る恐る顔の前に差し出すと、静かに両手を出された。私たちは一瞬“ハッ”となった。巾5寸の大鉋である。重い。刃先が胸に向いている。しかし、主の手にかざされた刃物は、微動だにしなかった。ややあって静かに領かれた。そして「石堂の鉋に間違いありません」と書いて下さった。それからひと月後に訃報が届いた。
やはりこの年の6月、会津に鑿作りの名工・長嶺重延(明治30年生)さんをお見舞いしたが、翌月には亡くなられた。そして遂に名を刻む間のなかった鑿が2丁遺作となって届いた。私たちは、二人の名人を相次いで失った。時は私たちを待ってはくれない。
この読み物は、当館の開館1年前(1983年)に大工道具館設立の意義を広く伝えることを目的に、元副館長・嘉来國夫ならびに元館長補佐・西村治一郎の2名が主となり、「道具・よもやま話」と題して竹中工務店社報(1983年発行)に連載したものを、改めてここに転載したものです。20年以上前の記述のため、古くなった内容もございますがご容赦下さい。